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覚え書き

おおかみこどもの雨と雪

公開当日に書いたものが出てきたのでサルベージ。私的な感想。
 
 
 「おおかみこどもの雨と雪」を観て参りました。六本木の舞台挨拶とれなかったので新宿のいつものとこで、初回と舞台挨拶と観て参りました。
好きな作品の満を持しての映画化時にもハンカチがしぼれるくらい(比喩表現でなくほんとにしぼったらアレなくらいぐしょぐしょにした)三時間泣いてたことがあるんですが、アニメスタイルのイベントに引き続き今回も同席してくれた友人曰く「開始五分くらいから二時間ずっと泣いてたね」という号泣具合でした。ED終わっても立てなくて、よろよろ泣きながら出てきて、トイレ行って、トイレで泣いてて、何の為にトイレ行ったか判らなかった。幸せだった。私が幸せだった。
ストーリーラインが明確になる前に泣いていたのは、もう、絵が動いて、喋って、音がついて、それが細田守の原作で脚本で演出によるものであり、画角もタイミングもTHE・細田守である、っていうことによるので、最初っから泣かせにかかってるとかそういう訳ではありません。私が勝手に泣いてただけです。むしろ細田監督の作品は、泣かせにかかってきてる訳ではなくて、観客の原体験を喚起させることによって涙を押し出すみたいな泣かせ方をしてくる気がします。そして色彩設定あれは反則だ。
「時かけ」「サマウォ」的な引き出しではなくて、むしろ彼がずっと憧れてきた「邦画」をアニメーションで表現しました的な、娯楽大作としてのアニメ映画ではなくてアニメーションで描かれた映画としてのアニメ映画っていう、未だかつてなかったんじゃなかろうかという枠組みの作品であったと感じました。どちらかというと「時かけ」の引き出しだろうけれどもアレもアニメ的な表現は多くて、じゃあそこまでだったらアニメーションである必然性はなかったんじゃないのといわれたらそれは勿論、ある、作品。だってそもそもおおかみこどもだもの。みたいな。「どれみと魔女をやめた魔女」的な、未来さんとどれみのような明確な二極化に近い気がする。
断定的に語るってことが怖いのですが(これはこうです、って言えるのは一次関係者だけですよね)、これはアニメじゃなくてはいけなくて、でも一般的な「アニメ映画」を観に行ったらそれは、「??」ってなってしまうんだろうなという、細田守の映画でした。何度でも言う、私はしあわせでした。直前にプチドーナツ三個入り買ったのに、予告長いわーなんでずっとエヴァのターンそりゃエヴァ公開近いからでしょもぐもぐ、洋画の予告も長いわーあっ桐島部活やめるってよ?、みたいな感じで一個目を食べきったところで本編が始まった結果、ドーナツをつまもうとしてた手はハンカチ握ってしまったので、残りのドーナツ一切手つかず、みたいなことになりました。胸がいっぱいだった。最初から最後まで間延びのしようがないつくりのくせ台詞は極端に少なく(これは舞台挨拶でも言及してた)、つまり、すごく情報量が多いけれどそれをどこまで読むかの深度は観客各々が各々の具合で選んでみていていい、構造をしてたとおもうのです。だからすごく幸せに世界に沈めたせいもあると思う。しあわせでした。
 
「ウォーゲーム」「サマーウォーズ」はちょっと横に置いておいて、細田演出っていったらやっぱり「選択の物語」だよねと思うのですが、今回の「おおかみ~」の選択は二つの道が提示されていて選択者もふたり用意されていたので、それぞれの道をそれぞれが選ぶことによってどちらの道を選んだ場合も、きちんと別個に描かれていまし、た。(ちょっとこわい)
でもって、ふたりの「その後」は描かれないわけです。「この道を選んだ、この道を歩いて行く」っていう決意に近い場面までで物語は終わっている、それはこれが選択肢を提示する側である「花」の物語であるから。交差点から見える景色は各々のちょっと先までが限界で、そこから先は選択したものにしか見えない。
で、その先をちょっと考えたりしたわけです。雨の選択に対して、「えっ山へ行ってもちょいちょい戻ってくればいいんじゃないの?何で今生の別れみたいな感じになっちゃうの?」とか、雪の選択に対して「雪が人間として生きると言っても、結局産んだ子どもはまたおおかみこどもなんじゃないの?」とか、そう考える事はできるのですが、そうではないんじゃないのかな、と思ったので。これは私の思ったことであり一つの考察です。
「何かを選んだら、もう戻る事はできない」っていうのはおとぎ話の上でのセオリーであり、そしてこれが「おとぎ話と思われるかもしれない」物語である上、雨も雪も、もう「選択」した以上「狼」と「人間」から揺らぐことは許されなくなっているのだと思います。狼を選んだ雨は人間にはなれない、人間を選んだ雪は狼にはなれない。狼を選ぶ上での救済は「おかあさんは狼の味方だから」であり、人間を選ぶ上での救済は「ずっと知ってた。誰にも言わなかった」によって達成されているので、ふたりはその経験によってその道を肯定されて、生きていく。
ふたりの父親である「彼」があの末路を辿るしかなかったのは、彼が人として街に生きながら狼として狩りを行うことをやめられなかった、人間に憧れながら本能を捨てきれなかった故なんだろうと思います。そして野生で生きられなかった狼もまた、「あのひと寂しそうに見えた」。自然と人間は共存できないってすーごく「もののけ姫」あたりのことを思い出すんですが、でも花はあの選択肢のT字路たる家でずっと生きて行くことが示唆されているので、そう乱暴でもないなと。共存ではなく共生、共に在るのでなく共に生きる物語なのかなと思います。狼として、人間として、別の世界で、共に生きる。
 
花の笑顔、真琴の笑顔、未来さんの笑顔、私的には21話初登場時のヒカリの笑顔も全部ひっくるめて(あとは嵐の学校、肯定された直後の雪の笑顔も入れたい)、「思い出があるから大丈夫。生きていく。」っていう女性の表情を描かせたら細田守の右に出るものはいないよなというのが、あれは彼の理想の女性なんだろうなとも思うのですが、素晴らしいです よ ねー。笑。
散々話をする上でウォゲとサマウォは棚上げしてたのですが帰宅途中改めて考えてみました。「ウォーゲーム」はおとこっこたちの物語なのでやっぱり置いとくとして(ヒカリちゃんが思い出に生きる女だったのは21話までであると仮定 コロモンはコロモンでしょ?)、「サマーウォーズ」のなかにそういうヒロインを捜したところ。最終的に、栄おばあちゃんに帰着しました。
 
あのナレーション、「雪」はどのタイミングの「雪」なのかということをもくもく考えています。「おおかみこどもの雨と雪」で描かれた時代がもはや「おとぎ話」になってしまった「雪」は、もしかしたらもう母親になっているのかもしれない。